貧乏
私が生まれ育った家は父の会社の社宅の長屋だった。
六畳と二畳に台所と汲み取り式のトイレがついていたが、風呂はなく銭湯通いだった。
この住宅に祖母、両親、叔母、姉、私の6人住まいで、夜は布団を並べて川の字のようにして寝ていた。
私の物心がついた昭和30年代は日本中が貧乏だった。
家族で外食をした記憶はないし、お客さんが来て蕎麦屋か中華屋から出前を取った時に、おこぼれ頂戴が関の山である。
小学生の時のお小遣いは1日十円だった、それでも駄菓子屋に行ってお菓子やビー玉、メンコなどいろいろなものが買えた。
我が家の豪華メニューは豚すきに紙かつ丼と現在から見ればしょぼいものばかりだった。カレーもエスビーのカレー粉と小麦粉を炒めたものがベースだった。
社宅の長屋は三棟あり15家族が住んでいた、それぞれの家族構成はあまり変わらず人家族5〜6人だった。
その長屋のドブさらいは月に何回かやっていた、夏になると町会から殺虫剤の散布があった。
また、リヤカーの雑貨屋に車の八百屋とかいろいろな商人がやって来て商売をしていた。まあ、スーパーやコンビニのない時代結構商売になっていた。
東京帝国大学医学部の骨格標本
東京帝国大学(現東京大学)医学部に保管されている男女の骨格標本は、本物の人骨で作られており生前は夫婦であった。
骨格標本になった男の名前は杉山茂丸、72歳で脳溢血で亡くなり、遺体は医学部解剖学教授小金井良精の立会いのもと解剖された。なお、茂丸夫人は後に亡くなった後に同様の処置が行われた。
杉山茂丸は明治から昭和初期に政財界に広い人脈を持ち活動した人物で、息子は作家夢野久作である。ただし、骨格標本になっている夫人は久作の実母(茂丸とは離婚)ではなく後妻である。
また、小金井良精は作家星新一の母方の祖父で、夫人は森鴎外の妹喜美子である。
星新一の父星一は杉山茂丸の書生を振り出しに米国コロンビア大学を卒業、米国で英字新聞発行など事業を行なった後、日本に戻り星製薬(現TOC)を起業して戦前日本一の製薬会社に育てた。