貧乏

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江東区三好の橋本助産院門柱

 

 私が生まれ育った家は父の会社の社宅の長屋だった。

六畳と二畳に台所と汲み取り式のトイレがついていたが、風呂はなく銭湯通いだった。

この住宅に祖母、両親、叔母、姉、私の6人住まいで、夜は布団を並べて川の字のようにして寝ていた。

 私の物心がついた昭和30年代は日本中が貧乏だった。

家族で外食をした記憶はないし、お客さんが来て蕎麦屋か中華屋から出前を取った時に、おこぼれ頂戴が関の山である。

小学生の時のお小遣いは1日十円だった、それでも駄菓子屋に行ってお菓子やビー玉、メンコなどいろいろなものが買えた。

我が家の豪華メニューは豚すきに紙かつ丼と現在から見ればしょぼいものばかりだった。カレーもエスビーのカレー粉と小麦粉を炒めたものがベースだった。

 社宅の長屋は三棟あり15家族が住んでいた、それぞれの家族構成はあまり変わらず人家族5〜6人だった。

その長屋のドブさらいは月に何回かやっていた、夏になると町会から殺虫剤の散布があった。

また、リヤカーの雑貨屋に車の八百屋とかいろいろな商人がやって来て商売をしていた。まあ、スーパーやコンビニのない時代結構商売になっていた。